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首里城焼失と再建 琉球王国450年の歴史について

沖縄県の首里城が火災により正殿、南殿、北殿などの計7棟が焼失しました。

首里城は、沖縄のシンボルといえる存在でその消失は日本中に大きなショックをもたらしています。

首里城とは、どんな存在なのかその歴史を振り返ってみたいと思います。




首里城 琉球王国のシンボル450年の歴史とは

1429年から1879年までの450年間当時、「琉球王国」として統治されていた時代のシンボルとして首里城は存在していました。

2000年12月には、首里城跡が世界遺産に登録され、2020年には東京五輪の聖火リレーの出発地点として、首里城公園が決まっています。

首里城の創設には、詳しい年代は明らかにされていませんが

発掘調査からは、14世紀末のものとされています。

三山時代(日本史でいうところの室町時代中期)には中山王国の城として使用されていたことがわかってきました。

尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなく、

史書に記録されている限りだと、今回の消失では5度目となります。

その度に再建されてきた首里城ですが、消失してきた時代背景をまとめていきましょう。




首里城焼失と再建の歴史

首里城一度目の焼失と再建

一度目の焼失は1453年(享徳2年)に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)。城内は完全に破壊された。

一度目に再建された城の外観と構造については、『李朝実録』に記述がみられ、1456年2月の目撃記録として、首里城は、「外城」「中城」「内城」の三地区に分かれ、外城には倉庫や厩、中城には200余人の警備兵、内城には二層の屋根を持つ「閣」があり、内部は三階建てで、三階は宝物を保管し、中層には王が滞在する場所があり、侍女が100余人控え、一階は酒食が供される集会所となっていたと記述されている。

首里城二度目の焼失と再建



二度目の焼失は1660年(万治3年)のことであり再建に11年の年月を要した。

首里城三度目の焼失と再建



1709年(宝永6年)には三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年(正徳2年)に薩摩藩から2万本近い原木を提供されている。

現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年(正徳5年)から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。なお、1712年(正徳2年)発行の「和漢三才図会」(寺島良安・編)には首里城が「琉球国」の項の挿絵(地図)のなかに描かれている。

首里城四度目の焼失と再建

四度目の消失は1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。

太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り陸軍第32軍総司令部を置いたこともあり(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。

戦後は首里城跡に琉球大学が置かれ、多くの遺構が撤去あるいは埋められた。

1958年(昭和33年)、守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まる。

1972年(昭和47年)、日本復帰後に国の史跡に指定(1972年5月15日指定)され、城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。

1979年(昭和54年)に琉球大学が首里城跡から移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。

1989年(平成元年)11月より、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。

首里城五度目の焼失と再建は?



2019年10月31日の未明に原因不明の火災が発生。午後1時30分ごろに鎮火。

原因については、調査中。

衛藤晟一沖縄担当相は、「一刻も早く再建しないといけない。内閣府としても音頭を取り、国土交通省や文部科学省とも十分協議し、県とも相談しながらやりたい」と再建について意欲的。




首里城へのアクセス

〒903-0812

沖縄県那覇市首里当蔵町3丁目1

  • 儀保駅出口から徒歩約15分
  • 首里駅出口から徒歩約16分
  • 市立病院前(沖縄県)駅出口から徒歩約21分

首里城焼失と再建 琉球王国450年の歴史まとめ

首里城が火災で焼失したというニュースを聞いて私もショックを受けました。

一刻も早い再建が実現してほしいです。